広がるフロアコーティングの可能性
居間の片隅のコーナーや、わざとつくられたレベル差などもある。
それらの多くは、ほんとうはなくてもかまわないもの。
なくてもかまわないけど、ゆとりのために計算してつくった空間。
でも、しつこいようだけれど、私の言いたい「無駄な空間」とは、無駄であって無駄でない空間のことなのだ。
なくてもかまわない空間ではなく、ぜったいに必要な空間。
でも、その空間にはわかりやすい実利はない。
住んでいるうちに、その空間があることで部屋が使いやすいとか、落ち着くとか、家族がお互いにじゃまにならない、とかいった効用があることに気づいていくもの。
そんな空間は、計算からは生まれてこない。
時間と経験とから、醗酵するようにして生まれてくるものではないか。
伝統的な「型」が混乱しているいまの住まいで、どうやったら無駄な空間を取りもどせるのだろう。
新しく家をつくる人はまだいい。
すでに住んでいる家で、無駄な空間をつくるには、どうしたらいいのか。
ひとつには、隙間の話で書いたように、無駄だと思えるスペースを利用しつくそうとしないで、無駄なままほうっておくこと。
じつは、なにもしないためには自制心がいるのだけれど、小細工をしないでほうっておく。
廊下のつきあたりや玄関の下駄箱の下、棚の上など、収納棚のひとつも置きたくなるようなところを、なにもしないでおく。
ダンボールなどの置き場にもしない。
それだけで、家のゆとりが違ってくるはず。
もし、リフォームや新築を考えているのならば、居住空間を削ってでも廊下や縁側、水まわりや玄関などなどに面積を取る。
居住空間は、私たちが思っているほど必要ないものだと私は考えている。
あなたが「リビングは十畳はなきゃ」とか「個室に六畳あれば、もっとゆったりできるのに」と思ったとしても、その面積のかなりの部分が、物を置くために使われていることを考えてみてほしい。
考え方しだいだけれど、玄関が広くて下駄箱の大きいものが置ければ、靴箱が階段や押入れにあふれることもないだろう。
洗面所が広ければゆったりと着替えができて、日常の着替えくらいは収納できるかもしれない。
そのぶん、個室の箪笥が不要になるかもしれない。
そして、縁側があれば、リビングでゴロ寝できなくても、クッションひとつ持って縁側で寝ころべる。
個室は寝るためと一人で勉強したり手紙を書いたりするための場所だと考えれば、狭くてもいい。
くつろいだり本を読んだりするのはリビングでいいのだから。
インテリアや家だけでなく、ファッションでも持ち物でも、しゃべり方でも文章でも、あらゆることについて、誰にでも共通することとして思う。
凝りすぎると影になる。
凝りすぎは、無頓着とどっちがましか決めかねるくらい、救いようがないのではないか。
ところが、配慮をすることと凝りすぎることとの区別は、もう言葉での説明を超えている。
その境界を直感的に理解できるかどうかは、個人の資質にかかってくるように思う。
インテリア雑誌、婦人雑誌は、この「凝りすぎ」に陥りがち。
思うに、編集者かコーディネイターか、それともその道の専門家と称する人たちが、身についていない配慮をしようとしすぎて凝りすぎになっているらしい。
部屋の塗り壁のなかに落ち葉を二、三枚塗りこんで、しゃれたつもりになる。
インドネシアやベトナムのいかにも素朴な民芸調の家具を揃えて、「ぬくもりのある家具が好きだから」と標榜する。
障子紙を色とりどりのモンドリアンふうにして、「アートっぽいでしょ」と自慢する。
白木の家具にギンガムチェックの布をアレンジして、小花のドライフラワーをそこここに飾り、「私って、ナチュラルなの」と表現する。
食卓に花やアロマキャンドルを浮かべた組を置いて、おしゃれな空間を演出する。
キッチンに調理道具をきれいに陳列し、スパイスも揃いの獣に並べておいて、料理を楽しんでいることを表す。
あるいは昭和三十年代の住宅を借りて、和服なんか着て、「文豪みたい」と言われてよろこぶ。
家の外壁を近所にない色に塗りあげ、表札や郵便ポストに凝って、「個性的でしょ」と誇る。
かわいげがあるといえばかわいげがある、ということは認める。
でも、それは野暮に気づかぬかわいげだ。
あるいは、わざと野暮になろうとする、へんなしゃれっけがある人もいることは認める。
それは、その入らしさであって、それでいい話だ。
ただ、真面目にアレンジし、真剣に凝ったあげく、それをもってインテリアの上級者、とか、暮らしの達人、とかを気取るのは、なにかずれているように思う。
私たちの文化には、茶道という佗び寂の美学がある。
一方で、金屏風に花鳥画を描く琳派の絵画や、華美な衣装やふるまいを誇る伊達者といった、派手をきわめて粋とする美学もある。
茶道では、装飾を削ぎおとしながら、相手に配慮と気づかせぬほど細心に気を配り琳派や伊達者は配慮しつくしてぎりぎり野暮にならないところの華美を誇る、というわけだ。
両方あって、両方の配慮を感じとれるのが、私たちの文化のいいところだと思う。
配慮をわきまえない人が安易に凝るのは、危険なのではなかろうか。
少しずつ時間をかけて、どの程度、凝るとちょうどいいのか。
自分にとって、どの程度の配慮ならできるのか。
失敗したり恥をかいたりもしながら、そこから「そうか、ここはやりすぎだったのか」とか「気がつかなかった」などと学びとればいい。
私だってえらそうなことは言えない。
いまだって、私のできる配慮はやっているつもりだが、他人から見れば、「あーあ、あんなことやっちゃって」とおかしく見えることをやっているかもしれない。
そういう意味では、誰もがいつでも過渡期なのであって、終着点はないのだろう。
でも、いつでも過渡期だからこそ、実物をたくさん見ること、そしてやってみること、その結果に意識的になること。
そんな日々のつみかさねで、すてきな配慮ができる人に近づければいいなと思う。
いまのところ、私は、暮らしにはなくてはならない無駄なものがあると思っている。
ちょうど、無駄な空間がなくてはならないように。
それは、花と絵画。
もしかしたら個人的な思いにすぎないかもしれないので、全面的に賛成していただかなくてもけっこうなのだが、それでも、心のどこかで「やっぱり人の暮らしにはなくてはならないものなんじやないか」と信じている。
それこそなくても良いものだけれど、あると暮らしがより心豊かになる。
家のなかを歩くたび、その部屋に入るたびに目にすることで、暮らしがより楽しくなる。
そんなものではないのだろうか。
花については、賛成してくれる人も多いだろう。
お客さまが来るときには花を活ける人は、珍しくないはずだ。
ところが、自分のためだけに花を活けるとなると「もったいない」となるのは不思議なこと。
少なくとも、花を見て「きれいだなあ」と思うならば、人のためよりも自分のためにこそその美しさを家に取り入れたい。
花屋さんで売っている一本二百五十円もする高価な花でなくてもいい。
一束八百円も出せば、ちゃんとした花束が売っている。
きちんと水切りして、活けたあとも手入れをすれば、一週間はもつだろう。
たとえ毎週買ったとしても、月に三千円くらい。
友だちと月一回、ホテルにランチに行く値段で、日々、心をなごませてくれるものが手に入る。
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